些末なうさ松ログ

些末なことを書きます

南ことりは何故もう一度木に登るのか ~北米版ラブライブ!第1話に見る翻訳の妙~

今から10年前のアニメの話をする。「ラブライブ! School Idol Project」だ。

ぼくはこのアニメが好きで、ブルーレイも全巻持っていて、さらには趣味が高じて北米版のブルーレイもAm●zonで買った(全話が1巻に収録されていて、英語音声の他に日本語音声も入っている。ぶっちゃけこっちを買った方がry)。

で、文章を書きたくなった。衝動的に。テーマは「南ことりは何故木登りをするのか」である。意味が分からないと思う。このタイトルだけ見て「あ、1期1話のアレかな?」と察してくれた人がもしいたら、ありがとうを伝えたい。ぼくはあなたと会えてとてもうれしい。

 

ストーリー

本論に入る前に、一応「ラブライブ! School Idol Project」のストーリーを紹介しておくと、「自分たちの学校が廃校になるのを防ぐため、アイドル活動を通して学校の人気を盛り上げ、廃校を阻止するために9人の少女たちがアイドル活動に励む」という青春ストーリーだ。

www.lovelive-anime.jp

第1話はその始まりも始まり。主人公の高坂穂乃果が、廃校の危機という事実を知り、なにかできることはないかと模索していく中で、「スクールアイドルというものがあるらしい」ということを知って、やってみよう!と決意する、というお話である。

公式HPより、TVアニメ第1話のストーリー紹介

https://www.lovelive-anime.jp/otonokizaka/prologue_1st.html

ここで、穂乃果は1人ではない。2人の親友(幼馴染)がいる。園田海未と、南ことり

「スクールアイドル!廃校阻止!やるっきゃない!うおお!」と盛り上がる穂乃果(作中ではそんなことは言ってないけど、まあ大体そんな感じのパッション)に対して、海未(落ち着きがあって現実的。あと人前が得意でない)ことり(前に出るというよりは穏やかで控えめな性格)も、なんやかんや言いつつ穂乃果と一緒にスクールアイドル活動を始めることを決意する……というのが、第1話のポイントになる。

特に海未は、アイドルへの興味も無いことはなさそうではあるものの、穂乃果の提案には否定的なスタンス。「穂乃果はいつも強引すぎます」と、穂乃果の無茶ぶりに振り回されてきた過去に思いを馳せつつ不満げな海未。過去には無理くり木登りに付き合わされて泣きを見たこともあった……。

 

ことり「私たちが尻込みしちゃうところを、いつも引っ張ってくれて……」

海未「そのせいで散々な目に何度も遭ったじゃないですか」

 

そこで差し挟まれるのが「木登り」のシーンである。穂乃果はノリノリであるが、海未とことりは「高い!怖い!帰りたい!」というリアクション。

ラブライブ!第1話「叶え!私たちの夢」より引用
©2013 プロジェクトラブライブ!

そんな海未に対してことりは、

「でも海未ちゃん、後悔したことある?」

と一言。そして海未は思い出す、あの日登った木の上から見た美しい夕焼けを――。

 

そんなこんなで、結局最後には、海未もことりも穂乃果の「無茶ぶり」にまた付き合うことを決める、という流れになるのだが、穂乃果・海未・ことりの3人の思い出であるこの「木登り」のシーンが大事なところである。前提として是非頭に入れておいてほしい。

 

「私、やってみようかな」をどう訳すか

本題に入ろう。

取り上げたいのは、第1話Bパートの中盤、まさに海未とことりが、穂乃果とスクールアイドル活動を始めることを決意するシーンである。

学校の裏庭で、1人アイドルの振付を練習してみる穂乃果。それを陰から見守る海未とことり。お手本も何もなく最初はうまくいかない。転んで尻餅をつく穂乃果。でも「よし、もう一回!」と全くへこたれない。

そんな穂乃果を見て、ことりは海未に向けて呟く。

「ねえ、海未ちゃん。私、やってみようかな。海未ちゃんは、どうする?」

ここだ。

さてこのシーン、英語版ではどう英訳されているだろうか。

英語力に自信のある人は是非予想してみてほしい。

なお北米版ラブライブ!の英語音声には字幕もついているのだけれど、ところどころ字幕と音声が違うので注意が要る。なのでまず字幕から触れる。

字幕だと、ことりの「私、やってみようかな」は「I think I'll give it a shot」と訳されている。"Give it a shot"はそのまんま英語で「やってみよう」という意味のカジュアルな表現らしいので、元の台詞の英訳として特になんの違和感もない、と思う。

YouTubeには字幕付きの第1話が公式でアップロードされていて見ることができるんだけど、そっちの英語字幕でも使われているのは「give it a shot」だ。

©2013 プロジェクトラブライブ!

www.youtube.com

 

では音声はどうか。

「I think I'll climb the tree again.」

こうだ。

どうでしょうか、皆さんの予想どおりだったでしょうか。

(ぼくのリスニング能力が貧弱なので細部が違っていたら申し訳ない。theじゃなくてthatとかかもしれん。ただ大筋間違っていないはず。たぶん。)

 

そんな訳し方があるなんて

大袈裟に聞こえるかもしれないけど、ぼくはこの台詞を初めて聴いたとき衝撃を受けた。ぶっ飛んだ、と言ってもいい。

これまでの人生でぼくは「翻訳」というものに何ら関心を払ってこなかったけど、この訳についてはマジでビビった。

そんな訳し方があるのか、と。

なぜここで"I'll climb the treee again"になるのか、という点についてはおそらく多言を要しないと思う。直前のシーンで回想されている「木登り」のシーンを踏まえているのだ

穂乃果の無茶ぶりに付き合わされてイヤイヤ登った木、だけどその上から見た夕焼けは今まで見たことないくらいに美しい景色で――。

今回も、「スクールアイドルをやる!」という穂乃果の無茶ぶりに驚きつつも、「穂乃果は、自分たちの知らない景色に連れて行ってくれる」という無限大の信頼があるからこそ、海未も、ことりも、スクールアイドル活動を穂乃果と一緒に始めることを決意するのだ。

勿論本編でいちいちそんな説明は入らないけれども、「木登り」のシーンを踏まえると、そういうことだろう、と理解できる。だから「I' ll climb the tree again」は、あの日の「木登り」を踏まえて、もう一度あの木に登ってみよう=穂乃果と一緒に挑戦してみよう、という決意表明の台詞だ。

難しいことは何もない。

 

でも、どうだろう、この訳って意外と思いつかないんじゃないかな。

ぼくはラブライブ!第1話は数えきれないくらいに観たけど、ここで「木登り」のシーンを踏まえた表現を使うことはまったく考えもしていなかった。

日本語の台詞は「私、やってみようかな」で、これで十二分に趣旨が伝わる。もし仮に、ここの台詞が「私、もう一度あの木に登ってみようかな」とかだったら、多分「???」だったと思う。言ってる意味は分かるけど、なんか回りくどい。

だけどこれが英語で「I'll climb the tree again」だと、なんだかスッと入ってくるし、直前の描写を踏まえたイカした台詞だな、という気になってしまうのは、なぜなんだろう。日米の文化の違いなんだろうか。

残念ながら「日本っぽい」「アメリカっぽい」とイメージを語れるほどの知見がぼくにはない。だから、本当のところは分からない。

ただ、とにかくぼくが感動したのは、このラブライブ!という作品を英語に翻訳するにあたってスタッフが「I'll give it a shot」では満足しなかったところだ

だって、そうだろう。

日本語の台詞を全部英語に直さないといけないところで、「私、やってみようかな」という台詞はスッと訳せば「I'll give it a shot」でいいわけだ。それで通じる。なんの問題もないはずなんだ。なのに、翻訳にあたったスタッフさんはそこに満足しなかった。もっと違う表現もありうるのではないかという可能性を追求して、直前の「木登り」の描写に目を付けて、「I'll climb the tree again」という表現を思いついた。で、その台詞に実際に声優さんがその台詞を吹き込んで、今ぼくはその台詞を日本の部屋の中で聴いてううむと唸ってるわけだよ。すごいことだと思うんだ。

 

何故ことりはもう一度木に登るのか

何故「I'll give it a shot」ではダメだったのかは分からない。

ただ、意訳をするにはそれなりの深い理由があるのだと思う。文化の違いもあるのかもしれないけど、製作サイドは「こっちのほうがいい」と判断しての「I'll climb the tree again」なのだ。

日本語だと「私、やってみようかな」という台詞で、ここには問題もない。

だけど英語版のスタッフはこの台詞を英語に訳すにあたってそこで満足しなかった、もう一歩踏み込む必要を感じた。なぜもう一歩踏み込む必要があったのか? 「やってみよう」だけでは伝わり切らない「何か」がそこにはあったからではないか(それを台詞に乗せるか台詞以外のところで描写するかはひとえに作風とか好みの話になるだろうから、別に正解はないけれども)。

じゃあ何を伝えたかったんだろう。

なぜ「木登り」に引っ掛けたのか。

南ことりの「やってみようかな」が、単なる「やってみよう」ではないからだ、と思う。

細かいニュアンスだけど、もうちょっとそこには「重み」があるんだと思う。

 

「興味があるから、気になるから、好きだから、とにかくやってみよう!」というのは1つのテーマではあるけど、南ことりの場合、そこに留まらない重みがある。自分では思いつきもしなかったことをやる、自分だけでは見られなかった景色をそれでも観に行く、という点が、南ことりというキャラクターにとっては重要なのだ。

南ことりというキャラクターは比較的に控えめな性格で、どちらかというと、穂乃果や海未の陰に隠れるようなところがある。ことり自身そこに問題意識を抱えていて、自分なりの挑戦をしていくシーンも作中では描かれている。その結果、ことりの挑戦は秋葉原のカリスマメイド」として結実したりもするし(なんじゃそりゃ)、グループの衣装作りを担っていくことで服飾の才覚に目覚め、やがて海外留学の誘いを受けるまでになっていく(それが終盤の展開のキーになっている)。

南ことりのそうした挑戦の第一歩は、穂乃果と一緒にスクールアイドル活動を始めることだった。

 

上述のようなことりの問題意識は第1話の段階では明確には描かれていないため、第1話の「やってみようかな」という言葉だけを見ると、かなりあっさり決意をしたようにも映る。

しかし、そこには期待(知らない景色を観てみたい)と不安(そんなことできるわけがない)、そして何よりも穂乃果への全幅の信頼(穂乃果ちゃんと一緒ならきっと後悔はしない)があり、それらが入り混じった末の「やってみようかな」なのである

それは単なる興味・関心から生まれ出る「やってみる」ではなくて、南ことりにとって「自分ひとりでは考えもしなかったような挑戦」であり「だけど、穂乃果や海未と一緒なら挑戦できる」「そしてその挑戦の先には何かが待っている」という意味が含まれているのだと思う。

それを象徴するのが、直前の「木登り」のシーンなのではなかろうか。

こうして考えてみると、「木登り」のシーンと、南ことりの「やってみようかな」という決意表明は違和感なく繋がると思う。しかし、日本語版ではあえてその接合関係はセリフに登場させず、シンプルに「やってみようかな」になっているわけだ。

上でも書いたけど「あの日登った木にもう一度登ってみようかな」だと、なんだか芝居がかりすぎていて違和感がある。ちょっとくどいしリズムもよくない。そもそも「木登り」のシーンは回想として挿入されているだけで海未やことりから直接的に言及されているわけではないから、逆に台詞に出てくると違和感を覚えるということもあるかもしれない。

だから、日本語の台詞は「やってみようかな」でいいと思う。

だけど、本当に何故なんだろうか、英語版だと「I'll climb the tree again」がハマってるんだ、これが

台詞のリズムとテンポがいい。「あの日登ったあの木」も「the tree」で済むんだからコスパがいい。この短い台詞に、あの日の「木登り」(=「無謀な挑戦」と「その結果自分ひとりでは観られなかったであろう新しい景色を観ることができる感動」の象徴)のエッセンスが詰め込まれているのだ。

そして何よりも「木登り」は、ことりの穂乃果に対する信頼の証なのである。

「穂乃果ちゃんの選ぶ道なら、どこへでも」、そういうことだ。

 

そんなわけで、あくまで個人の妄想だけれども、「I'll climb the tree again」というごく短い台詞の中には、高坂穂乃果南ことりの関係性(第1期の中核となるテーマでもある)が詰め込まれているわけで、それを存分に活かせるナイスな言葉選びだと思った次第。

 

南ことりは何故もう一度木に登るのか。

あの日一緒に見た「輝き」を、もう一度一緒に見るためだ

 

お些末さまでした。

©2013 プロジェクトラブライブ!

 

あ、今日髪切りたい

髪を切りたい。

が、美容院を予約するのが面倒くさくて、つい後回しになる。

日にちを決めて予約するだけのことが何故こうも億劫なものだろうか。

ハードルはふたつある。

①「日にちを決める」と②「美容院に予約を入れる」だ。

②も大概面倒だが(特に電話が必要だと尚更)、実は①も面倒なのだ。忙しくてスケジュールが空いてない……のではない、むしろ逆。

暇はある。

いつでもいい。

いつでもいいからこそ、面倒なのだ。

選択と決定のコストは意外と重い。自由とは存外手間なものだ。

我ながら聞いて呆れるズボラぶりなのであるが、面倒なものは面倒なのだから仕方ない。

ぱっと「あ、髪切りたい」と思ったときに、ぱっと髪を切れるのが1番いい。そういう意味では街中の1000円カットとかは丁度いいのかもしれない。

 

お些末さまでした。

英語学習はオワコンなのか

テクノロジーの進歩はすごい。自動翻訳のレベルもどんどん上がっている。そうすると、もはや語学に取り組む必要はなくなるのだろうか。

アメリカ生活で実感した「英語学習」のオワコン化 - 日本経済新聞

 

英語のプロになるわけでもないなら、目的に応じて最適なツールを使えばよく、わざわざ時間とコストをかけて勉強する必要はない、と言われると、それもそうだなあ、と、思う。

ただ、ひとつ思うのは、

「そうした便利なツールにいつでも自由にアクセスできる」という前提はこれからもずっと所与の前提であり続けるのか

ということだ。

google翻訳にせよDeepLにせよ、それはどこかの民間営利企業が提供しているサービスなわけだけれど、それを無料で使い続けられるのってとてもすごいことだ。でも、それって、いつまでそうなんだろう。

今更Google検索が有料になる未来も想像はつかないけど、よく考えるとそれって誰が保証してくれるのだろう。あるいは、インターネットがこの先もずーーーっと安定して安全に使い続けられる保証は、あるんだろうか?

タダより高いものはないとも言うけれど、便利さを享受するのと引き換えにテック企業への依存度がどんどん上がっていくのはなんかちょっと不安。

別に今更洗濯機を手放して洗濯板を使おう、なんてことを言うつもりはないんだけど、「いざというとき、自分でもできること」はひとつでも多い方が安心だと思う。

なので、自分は(趣味のレベルだけど)英語の勉強はこれからも続けるつもりなのであった。

 

お些末さまでした。

 

 

 

 

スクールアイドルがそこにいる新時代について

趣味の話。

蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブにハマっている。

https://www.lovelive-anime.jp/hasunosora/

 

もともとラブライブ!は好きだったけど、一時(μ's全盛期の2014〜2016年)に比べると熱は落ち着いていた。アニメは全部観ているし、ライブにもたまに足を運ぶけど、そのくらい。

そんななか、「バーチャルスクールアイドル」というコンセプトのもと始まった蓮ノ空。遅ればせながら最近YouTubeでストーリーを拝見して、まあ、ハマった

【みんなで一緒に視聴会】 第1話 『花咲きたい!』 「Link!Like!ラブライブ!」 活動記録/ストーリー - YouTube

ストーリーは、テキスト主体で進む形式(ADVゲームみたいな感じ)なんだけど、1話あたり1時間近い尺がある。それゆえか、アニメ等と比べても描写がとても丁寧

アニメは尺が限られていることもあり、勢いでオラァ!とやりがちな傾向がとくにラブライブ!シリーズのアニメにはあったけれど、蓮ノ空のストーリーは、今のところスポットを当てる登場人物を絞って丁寧に描写を重ねているところが非常に好感触

 

そして、バーチャルスクールアイドル、というコンセプト(要するにVtuberラブライブ!でやるということ!)から、アプリを通してライブ配信や雑談配信を行っている。これが結構すごい。

 

ライブ配信については、もちろんネット環境で気軽にライブを観られるのもひとつ時代の進歩ではあるけれど、それ以上にすごいのはキャラクターの3DCGを動かしてライブパフォーマンスをしているところ

これはものすごいことである。ラブライブ!シリーズにおけるパラダイムシフトといってもいい。

なぜか。

ライブは、(アニメーションを除くと)声優さんのパフォーマンスを通さなければできなかったことだからだ。

ラブライブ!シリーズの大きな特徴のひとつは、まずキャラクターがいて、そのキャラクターのライブシーンを描いたアニメーションがあって、それを声優さんがリアルでも再現をする、というところにある。しかし全部の曲にアニメーションがついているわけでもなく、ライブパフォーマンスのほとんどはやはり踊ってくれる声優ありき、になる(それゆえに身体的に負荷が大きく、キャストが出演を断念……という問題もあった)。

今までの時代は、歌って踊るのは生身の人間の特権だった。

しかし、これからはそうではない。

キャラクターがそのまま歌って踊る時代が来た。

もちろんモーションキャプチャを使っている「中の人」はいるけれども。

これはすごいことだ。好きなキャラクターのライブパフォーマンスをそのまま観られるのだから。

 

さらにすごいのは配信だ。

前々から思っていたこととして、「Vtuberって結局配信者にアニメキャラクターの絵がついただけでは」ということがあるのだけれど、蓮ノ空の場合、

本当にキャラクターがそのまま配信をしている設定で、声優さんがリアルタイムにキャラクターを「演じている」

(サクラとか台本じゃないと信じてる!信じてるよ!)。

これがなかなか、楽しいのだ。

キャラクターを主軸にコンテンツを楽しむ層からすると、声優さんが活発に活動してくれるのももちろん嬉しいけどそれ以上に「キャラクターの描写」の供給が欲しいのだ。

この点に関して、蓮ノ空はストーリーのボリュームが多いことにも加えて、配信がキャラクターの描写を深掘りするものとして機能しているところが素晴らしい。これは今までのシリーズにはなかった特徴だと思う。

また、「バックグラウンドとなるストーリーがある」という点で既存のVtuberとも差別化されているのも強みなのではなかろうか?

 

たとえば↓の配信など、始めから終わりまでそのキャラクターの魅力が遺憾無く発揮されていてすごい(乙宗梢という「機械が苦手」というキャラクターらしい最高のオチがたまらない)。

【2023/5/13 配信 With×MEETS】お悩み相談室 (ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ) - YouTube

 

このノウハウは、蓮ノ空だけでなく、ラブライブ!の他シリーズにも展開できるポテンシャルを秘めているかもしれない。

μ'sの生配信とかあったらどうしよう。興奮しすぎて情緒がえらいことになるかもしれない。

 

アプリは今のところアーリーアクセス版ということで、実装されていない仕様も多々あるようだ。

f:id:Risotto1931:20230514212636p:image

今後は課金しないとできないことも増えていくだろうから、そのときこのアプリとどう付き合っていくかは分からないけど、今のところストーリーと配信を観るものとして非常に楽しめるものとなっている。

https://apps.apple.com/jp/app/link-like-%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96/id1665027261

 

長くなった。

お些末さまでした。

 

雨が止むまで

低気圧には逆らわない。

なんか調子が悪いな、という日はだいたい天気が不安定で気圧も低い時だ。

こういう日はもう全部気圧のせいにして何もしないのが一番いい。

抗わず、波が去るのをじっと待つ。

人間のこころとからだにも波があるので、待ってればそのうちまた元気になる、というのが自分の経験則としてある。

なので、「待ち」の一手だ。

くまのプーさん風に言えば、

「何もしない」をする

のだ。

あと、じぶんを責めないのも大事。全部気圧のせいにして寝るのでいい。まじめなやつほどそうするべきだと、身をもって知っている。

 

雨があがったら、おいしいものでも食べに行こう。

 

お些末さまでした。

 

 

アテンション、プリーズ?

広告を好きな人っているのだろうか?

作り手ではなく受け手として、の話だけども。

Google検索でもYouTubeでもFacebookでも Instagramでも、広告を目にしない日はない。電車の中でも広告に包囲されている。兎角この世は広告だらけだ。

もちろんその全部が悪いものである、というつもりはない。実際Instagramの広告から自分好みの服を見つけて買うに至ったこともある。

しかし、隙あらば広告が差し込まれることに若干辟易としているのも事実だ。あまりにも無遠慮にぼくらの視界に入って来すぎるように思う。

目を背けることができるものならばまだマシだけど、インターネット上の広告は「見ることを強制される」ものが多い。

それは、ぼくらが無料でインターネット上のサービスを利用することの対価でもある。だから「お金を払うことで広告を消せる」なんていう乱暴な手法も成り立つ。

嫌ならお金を払え、だなんて。

ぼくらは個人データだけでなく、ぼくらの「注意」を差し出している。それが現代の「アテンション・エコノミー」の構図だ。

この点に関してぼくがとても好きな言葉がある。

あなたの人生とはすなわち、あなたが注意を向けたあらゆる物事の総体である

オリバー・パークマン 「限りある時間の使い方」

ぼくらの人生は、ぼくらが注意を向けた物事でできていて、あとで人生を振り返ったときに浮かび上がるものはぼくらが注意を向けたものだけだ。

その一部を「広告」に捧げよ、というのだから、いやあ、なかなかに悪魔的ではないか?

 

お些末さまでした。

 

じぶんに餌をあげる

むかし、司法試験に受かった後、感想めいたものをブログに残していた。一受験生の雑感だけれども、どこかの誰かの参考になればいいな、と思って書いた。

うさぎ式基本書INDEX

いま見返してみると、自分はよく頑張ったなあ、と褒めてやりたくなる。

一方で、社会人にもなっていつまでも受かった試験の話をしているのいかがなものか……(予備校講師みたくそれ自体を仕事にしている人はもちろん別ですよ、念の為)。

年次を経れば経るほど、「何をしたか、何ができるのか」を問われるわけで、試験の合否や成績なんてものは二の次になっていくもので。

自分のピークは〇〇試験受かった時でした、というのはちょっとかなしい。

しかし、一方で、

あのとき頑張ってやり抜いたこと

が自分の中の糧になることもまた事実。

良きも悪きも過去は過去、変えられぬものはありのまま受け止めるしかない。ならば前向きに捉えて自己承認の種にでもするのがよかろうなのだ。

いつまで経ってもセンター試験の点数の話をしている大人にはなりたくないけど(今はもうセンター試験じゃないんだっけ)、でも、自分の中で密やかに誇るくらいはいいんじゃないかとも思う。

「人からの評価」に依存すると、自分でコントロールできないことに左右されちゃうからしんどくなるけど、「自分の過去」については自分でいくらでも美化して気持ち良くなれるからめちゃくちゃコスパがいい。

もちろんそればっかりではあまりにもなさけないけども。

自己肯定感を損ないがちな現代社会における一服の清涼剤くらいとしてなら、いいんじゃないかなあ。

 

お些末さまでした。