アテンション、プリーズ?
広告を好きな人っているのだろうか?
作り手ではなく受け手として、の話だけども。
Google検索でもYouTubeでもFacebookでも Instagramでも、広告を目にしない日はない。電車の中でも広告に包囲されている。兎角この世は広告だらけだ。
もちろんその全部が悪いものである、というつもりはない。実際Instagramの広告から自分好みの服を見つけて買うに至ったこともある。
しかし、隙あらば広告が差し込まれることに若干辟易としているのも事実だ。あまりにも無遠慮にぼくらの視界に入って来すぎるように思う。
目を背けることができるものならばまだマシだけど、インターネット上の広告は「見ることを強制される」ものが多い。
それは、ぼくらが無料でインターネット上のサービスを利用することの対価でもある。だから「お金を払うことで広告を消せる」なんていう乱暴な手法も成り立つ。
嫌ならお金を払え、だなんて。
ぼくらは個人データだけでなく、ぼくらの「注意」を差し出している。それが現代の「アテンション・エコノミー」の構図だ。
この点に関してぼくがとても好きな言葉がある。
あなたの人生とはすなわち、あなたが注意を向けたあらゆる物事の総体である
オリバー・パークマン 「限りある時間の使い方」
ぼくらの人生は、ぼくらが注意を向けた物事でできていて、あとで人生を振り返ったときに浮かび上がるものはぼくらが注意を向けたものだけだ。
その一部を「広告」に捧げよ、というのだから、いやあ、なかなかに悪魔的ではないか?
お些末さまでした。