些末なうさ松ログ

些末なことを書きます

あと5分だけ?

朝起きて勉強してると、部屋の窓の外からいつも聞こえてくるアラームがある。

ご近所さんの誰かの目覚ましアラームなんだろうと思っているけど、いつも、少なくとも30分以上はずっと鳴り続けている。

早く止めればいいのに、と思わなくもないけど、なんとなくあのアラームを聴くと「あー、いつもの朝だなあ」と思うようになった。

程よい朝のBGMになっているので、もうしばらく寝てても大丈夫ですよ、と言いたいような、そうでもないような。

 

お些末さまでした。

怠(おこた)

兎にも角にも世の中

「好きなこと」で生きていこう

とか、

「本気になれること」を見つけよう

的な言説に溢れている気がする。

いや、否定はしないのだけれども。

たしかにそっちの方がハッピーではあるけれども。

思うのは、そこでいう「好きなこと」「本気になれること」というのは

能動、積極、作為

を前提にしているなあ、ということなのだ。

要するに「何かをする」ことが念頭に置かれている。

なーんもしないでなんかなんとなくぼーっとしているのが好き

っていう人は、どうすればいいのかな、と思っちゃうわけだ。

まあ、ぼくなんだけど。

いいのか、本気になって…………? お見せするぞ、本気の怠けってやつを……。

大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』(2019年、星海社)という本の中には、こんな一節がある(96頁)。

何かを「する」ことだけが重要なのではないのだ。この世に生まれたからには何かをしなければならない、というわけではないし、何かを生産しなければならないわけでもない。「行動したり、創造したりすることだけが問題ではない」のだ(『シオラン対談集』254頁)。

勤労と同じくらいの怠惰も愛すべき美徳だと思うわけだけど、なかなか難しい。

 

まあ、とはいえ、四六時中ぼーっとしていられるほどぼくも徳の高い人間ではないので、暇潰しになんかいろいろすることはもちろんある。労働とかね。

しかし「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる」とパスカルは『パンセ』で言ったらしい。けだし名言である。

おこたでぬくぬくしてるほうがしあわせね。

 

お些末様でした。

理想のサウナと椅子と

サウナを出てすぐ近くに水飲み機があること。サウナから出たら水分補給すぐしたい。ほんで、そのまま水風呂に入れるのが望ましい。つまりサウナ、水飲み機、水風呂の動線が確保されていること。これ重要。

あと、椅子が多いこと。結局いちばん楽しいのは椅子に座ってぼーーーーーーっとしていることなんだよな。究極、サウナはなくても椅子があればいい。銭湯に行って熱湯→水風呂→椅子に座る、をやるだけでも楽しくて最近はむしろそっちのが多い。あまりにも椅子に座っている時間の方が長くて「ぼくは今金払って裸になって椅子に座ってるのか?」と感じることもあるけど、気持ち良いからそれでいいのだ。

 

お些末さまでした。

成長するJR?

JR西 コロナ禍で安全費減額 収益強化を 脱線事故18年 (産経ニュース)

https://u.lin.ee/XxZVsgF?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none

「悲惨な事故を再び起こさないよう、JR西は成長と安全確保を両立させる経営が求められている。」

とのことだが、公共インフラである鉄道会社にも「成長」が求められるというのもすごい話だな、と思った。

もちろんインフラサービスにも「改善」してしかるべきところは多々あるだろうから、安直な現状維持もよくはないけど、しかし「成長」という響きにはすこし違和感を覚える。

安全性を維持するためにはお金がかかるので、それを賄うために収益性を上げないといけないっていう理屈はもちろん分かるんだけど。

民営化っていうのはそういうことなんだろうけど。

一番重要なのは安全に電車を走らせ続けてもらうことだと思うので、そこを見失わないでほしいと思う。

 

それにしても、とにかく「成長」を志向する資本主義経済を見ていると、「その先には一体何があるんだろう」と思わないこともない(話を大きくしすぎ?)。

 

お些末様でした。

 

 

あなたが一番見たものは

人生が終わる時に、リザルト画面が出るとして(どんな仮定だ)。

いろいろ人生のスコアを総括するとして、その中に

「人生で一番視線を向けたもの」

という項目があるとすると、それはたぶん

「パソコンの画面」

になるんだろうなと、思う。

そして2位は

スマホの画面」

なのだ。

世の中にはいろいろすてきなものが溢れているけど、そんな中で、液晶画面ばかり見て過ごしているというのもなんだかちょっと勿体無い気がしなくもない。

 

お些末さまでした。

 

考える葦

パスカルの有名な言葉で

「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎(ひとくき)の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」

というものがあり、そこから「考える葦」というフレーズが広く浸透している気がする。

このとき、「葦」は「あし」と読んでいるはず。

ところが、植物としての葦の和名の読み方は

「よし」

らしい。Wikipedia情報だけど、

和名ヨシの由来は、もともと本来の呼び名はアシであったが、「悪し」に通じるため、「ヨシ」と言い換えられたものである

とのこと。

そういう話を聞くたびに、一体どこの誰が始めてどうやって広まるんだ、と思うんだけど、関西ではアシの名前も残ってるらしい。

関西地方では、お金を意味する「お足」に通じるため、「アシ」の名前が残されている

ともあれ、パスカルの「考える葦」は

「かんがえるよし」

と読むのが正しい気もするけど、そういう読み方は聞いたことがない。なぜなのだろう……。

まあ、「考える葦」を「かんがえるあし」と読んでいたら「アオアシ」も「アオヨシ」になっていたのか……と考えると、アシの方でよかったなー、とも思う。

https://bigcomicbros.net/work/6196/

 

お些末さまでした。

 

 

 

 

ランチは500円まで

「ランチっていうのは1000円以内じゃないとダメなんです」

というセリフは、たしかフジテレビの月9ドラマ「ランチの女王」の主人公(演: 竹内結子)のことばだったと思う(うろ覚え)。

20年近く前のドラマだけれど、今でも印象に残っているそのセリフについて、あえて今一言申すとすれば、

「ランチは1000円でも高い」

ということである。

たまに友人や同僚と行くのであればまだしも、日常的に1000円のランチを食べるのはなかなか厳しいと感じる今日この頃のお財布事情だ。

じゃあいくらなら良いのだ、という話になると、まあ確たる基準があるわけではないのだけれども、ここはキリよく500円でどうか、と考えた。

そんなわけでここ最近

ランチは500円まで

という自分ルールを課している。

正直、難易度は高い。

東京都心で500円以内でランチが食べられる場所はそう多くない。

ただ、意外とやっていける、とも感じている。

以前、ふらりとカレーショップC&C(CoCo壱に似て非なるあのカレーチェーンである)に入ったときのことだ。

しまった、と思った。

500円以内で食べられるものが

プレーンカレー(490円也)   

しかない。

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トッピング無し、である。

それはどうも味気ない、せめてトッピングを、100円あればコロッケがつけられる、との囁きが聞こえてきた気がした。

しかし、長きにわたる葛藤の末、掟を優先した。

プレーンカレー、いただきます。

で。

食べてみたらこれが意外と美味かった。

そして満足した。

実のところお昼ってそんなにお腹空いてるわけでもなく、いっぱい食べても眠くなるだけなので、なんのトッピングもないプレーンカレーくらいでも案外ちょうどいいものなのである。

むしろ、なんとなく、ありもしない必要に駆られてトッピングをつけたり大盛りにしてみたりするほうが、結果的に「あれ要らなかったな」とほんのり後悔することもありうるわけで。

結果的に、ちょうどよかった。

自分はこのくらいでも満足できるのだ」ということに気付けたのは、収穫だった(この「ちょうどいい」ラインを見誤るばかりに過食や浪費につながっているのだと思う。「腹八分目」という言葉、昔の人は伊達や酔狂で言い始めたわけではないのだ。反省)。

 

あと、500円の範囲内だと、仮にハズレを引いてもダメージは少ない

以前、行列のできるラーメン屋がたまたま空いてたのでお昼にスッと入って1000円以上するお高いラーメンを食べたものの、まあ美味しいは美味しいけど1000円払うほどではないな、というちょっぴり残念な気持ちになった経験がある。

値段が高いと期待値が跳ね上がるので、その分外したときのガッカリ感も大きい。

それに対して500円とかだとこの期待値のハードルが下がる分、ハズレを引いてもほぼノーダメージだ。一方で思わぬ当たりを引いたときはとてもお得な気持ちになれる。

ダウンサイドは限られているけどアップサイドは無限大、あらすてき。

 

そんなこんなで、しばらくは「ランチは500円以内」縛りを続けてみようと思った次第。

 

お些末さまでした。